世界を目指す前に 知っておきたい、あれこれ

未来を生きる次世代への置き書き

部活動はもっと自由でよいような

suhartini, · カテゴリー: 未分類

我が息子は、某文化部にいる。

以前は週3回しか活動していたなったが、息子が入学した年から毎日活動するように変更された。

とはいっても、運動部と違って、体を継続的に鍛える必要はないし、取り組む内容は理系研究だが、中学生ができる研究は限られている。

だから、週3ぐらいがちょうどいいという感じだ。

じゃあ、毎日どうしているかというと、顧問がいないときはひたすらおしゃべりで終わるとのこと。

そのことに疑問を感じている息子は、時間の無駄だと感じていて、こんなことなら大量に出される学校の課題をやる時間にあてたいということ、課題が多いときは、部活を休んで自習室にこもっているらしく、そのことで筆者は顧問と話し合い状態なのだ。

ちなみに、部活は一度入部したら、3年間続けろ!とのこと。

よほどのことがない限り、転部は認められない。

 

協調性という意味では、息子の行為は間違っている。

でも、本来は週3日でよいものを、わざわざ週5日にする無駄に付き合わされるというのも、どうなのか?という息子の言い分も、わかる気がする。

息子と話し合った結論として、とりあえず合格を出してくれた学校への恩返しのつもりで、顧問のいうとおりにしておけ、となったのだが。

 

そういえば、筆者の友人で、普通の公立中学出身でありながら、部活に入らなかった!というツワモノがいた。

理由は、一つのことに固執したくなかったから、とのことだが、そういう選択肢ってアリな気がする。

実際、私立中学なんかは、部活は自由というところは少なくなく、掛け持ちしている子すらいるらしいから、そういう考え方は受け入れられている場所があるのだ。

それに、視野が広がる大事な時期に、多くの時間を部活に費やされるのって、どうか?と思う。

何に関心があるかは、まさに個性そのものだし、残念ながら、既存の部活動には、そういった個性の受け皿はない。

だから、部活動って、子供の個性を伸ばすよりも、子供の個性を奪っているように思えてならない。

日本が優秀なモノづくりの国であった時代は、それでよかったのだろうが、既存の枠にとらわれない自由な発想が求められる時代に、部活動は合わないような気がする。

 

 

 

桜はしょせん他人の樹だから、美しく感じる

suhartini, · カテゴリー: 未分類

いつの間にか桜の季節が終わり、ゴールデンウィーク。

今年は、天候がはっきりしなくて、よほど花見好きでもなければ、いつのまにか桜の季節が終わっていたという感じだった。

筆者は、桜があまり好きではない。

というのも、桜の木が家の敷地にあって、有難みを感じないからだ。

桜の木というのは、公園とか、街路であるとか、公共の場所に生えているから、よいのだ。

なぜなら、桜は、一斉に咲き咲き始めるまでは良いのだが、その後に花びらが散って地面に散乱すると汚くなる。

しかも、その後に青葉がぐんぐん生えてきて、毛虫がつく。

年によっては、毛虫が大量に発生することもあり、そういう場合は枝ごと切り落とすのだが、これが結構な重労働だ。

花見を楽しむ桜は、通常は公共の場所にあるから、役所が、そういった面倒を請け負ってくれる。

私たち花見客は、そうやって維持された桜を楽しんでいるのだ。

しかし、実家の敷地にある桜は、個人の所有物だから、役所は関係ない。

ご近所に迷惑にならないよう、持ち主が管理しなければならない。

桜が好きではない、という理由が、なんとなくわかっていただけただろうか?

 

実は、もう一本、筆者の家の敷地に木が生えていて、そっちは筆者のお気に入りなのだ。

それは、桃の花だ。

ちょうど3月の肌寒い時期に、春の訪れとともに咲く。

樹が大木にならないから、管理が楽だし、枝を切って花瓶にさしてもいい。

ご近所に差し上げると、とても喜ばれる。

世の中の人は、桜ばかり愛でるのだけど、桃の花もきれいなので、来年はぜひ、ご注目を。

でも、桃の季節はまだ寒いので、野外で花見は厳しいかな?

旦那さん(奥さん)の故郷は「地球の歩き方」にでてる?

suhartini, · カテゴリー: 未分類

国際結婚をしていると、どうしても里帰りをしなければならない。

例えば、日本人が故郷を離れて住んでいても、日本国内なら、日本語が通じるわけだし、まったく帰らなくても、どうってことないだろう。

しかし、母国を離れて住む外国人が、言葉や生活習慣の違うところに住み続けるというのは、いろいろと気苦労もある。

それが長く帰らないでいると、蓄積されてくるものだ。

だから、何年かに一度でいいので、自分が生まれ育った故郷に帰り、心の洗濯をしてくるということが必要になってくる。

そんなわけで、筆者夫婦は3年に一度、夫の母国に里帰りをしている。

たぶん、筆者のように国際結婚している人は、同じではないだろうか?

夫婦2人だけの家族ならいいのだが、子供が2人、3人といると、航空券代もかなりの額になる。

特に、仕事をしていて、お盆やGW,年末年始でないと休みが取れない場合、その費用が重くのしかかる。

なのに、国際結婚していない人は、「年末年始に海外旅行なんてリッチじゃん」とか平気で言ってくる。

「リッチじゃねえよ!国際結婚を維持するための重いコストってやつなんだよ!」と言っても分かってもらえない。

 

そうそう、筆者は、国際結婚している友人に、「旦那さん(奥さん)の実家のある街って、「地球の歩き方」に出てる?」と聞くことがある。

ニューヨークやロンドン、またはバンコクでもいいし、プノンペンでも、どこでもいい。

地球の歩き方に掲載されている街なら、それなりに里帰りは楽しめる。

しかし、何の変哲もない片田舎や、工業都市だったりすると、「地球の歩き方」には、その町に関する記述はない。

そういう場所は、全くと言っていいほど、面白くもなんともない。

食べ物が口に合わない、ショッピングをするにも、買いたいものが売っていない、見て楽しめる風景もない。

観光的資源に乏しい場所って、本当に、外国人が楽しめないのだ。

 

だから、言っておく。

もし交際している外国人が、「地球の歩き方」に出ているような地域の出身なら、たまの里帰りも、海外旅行気分を味わえる。

でも、「地球の歩き方」にスルーされちゃうような街なら、里帰りが重いコスト以外の何物でもなくなるのだ。

まあ、覚悟するしかないのだけど。

 

 

 

キリスト教徒になって、クリスマスがしんどい

suhartini, · カテゴリー: 未分類

一応なのだけど、筆者はキリスト教徒というやつだ。

大学のときに、キリスト教文化なる講義を受け、そのときのテキストで聖書をかわされた。

もちろん、当時は、単に単位をうめる目的で選択したに過ぎないのだが、アダムとイブの話や、聖書で用いられるたとえ話が面白く、授業そっちのけで読み進んでいたら、いつの間にかクリスチャンの友人ができ、そういった人たちの誘いで教会に行くようになったのが、キリスト教徒になったきっかけだ。

まあ、洗礼を受けるまでにはかなりの時間がかかったのだが、とりあえずは、正真正銘のクリスチャンとなっている。

ちなみにだが、主人はカトリックの家庭に生まれ、敬虔なカトリックだ。

で、結婚するにあたり、筆者が改宗?(正式には信仰宣言)をすることで、カトリックの仲間入りを果たした。

あんまり真面目にやっていないんですがね。

 

キリスト教徒になってよかったことは、ここでは割愛する。

というのも、信仰体験は人それぞれなので。

 

しかし、キリスト教徒になって、楽しめなくなった?ものがある。

それは、キリスト教的な行事、つまり、クリスマスだ。

今は、筆者は不真面目なキリスト教徒なので、ごく一般的な日本人の考えるクリスマスを、そのままやっている。

つまり、お酒を飲み、プレゼントを買ったり、外のイルミネーションを楽しんだり、だ。

もし筆者が独身だったら、恋人とロマンチックなクリスマスナイトを楽しんだろう。

 

しかし、キリスト教徒になったとき、その辺が微妙に違ってきた。

積極的に参加し、楽しまなくてはいけない義務?が生まれた。

 

まず、教会のクリスマス会に参加しなくてはならない。

言っておくが、クリスマス会には酒は出ない。

酒もないうえに、同じ信徒とはいえ、趣味も年齢層も異なる人と、とりあえず盛り上がらなくてはならない。

普段は酒ありで、下世話な話題で馬鹿笑いを楽しむ筆者からすると、これはしんどい。

でも、クリスチャンとして、キリスト誕生のお祝いを信徒同士で楽しまなければならないのは、多少の演技も必要になってくる。

さらに、カトリックになったときは、聖劇(キリスト誕生の劇)だの、聖歌隊の練習だのと、とにかく、ひたすら練習に励まなくてはならない。

そして、礼拝やミサの後のパーティのメニューを考えたり、買い出しが追い打ちをかける。

だから、クリスマスはクリスマスどころではない。

12月が近づくと、暗澹たる気分になったものだ。

 

なんだか、最近は、クリスマスやバレンタインデーよりも、ハロウィンの方が人気があるらしい。

理由は、前者は恋人同士で楽しむのに対し、ハロウィンなら同性の友人同士でも楽しめるあたりが関係するらしい。

日本の若者よ!それでいいのだ。

筆者は、クリスマスは生真面目にキリスト教的なことをやろうなんて考えずに、普通に楽しめばいいのではないかと考える。

そうしないと、クリスマスが一年中で一番しんどい季節になっちゃうんで。

テロ勃発後は、恐怖の毎日

suhartini, · カテゴリー: 未分類

13日、パリでテロによる大規模な襲撃事件が起きた。

まずは、尊い命を奪われた犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

テロ事件は、インドネシアではよく起きている。

日本人が犠牲になった事件としては、2002年のバリ島での爆破テロを記憶されているかと思う。

筆者はその事件が起きたときにバリ島に住んでいて、ある夜、クタで爆発があったんだって、ニュースでやっているよと近所の人が言うので、テレビをつけたら、延々と建物が燃え上がる映像がただ流れていた。

当時はガス爆発でも起きたのかと思っていたら、いわゆる自爆テロで200人近い死者が出たと聞いて、驚いた。

爆破のあったクタのメイン通りは、仕事でもよく行ったし、多くの観光客がごった返す繁華街なので、金曜の夜は気晴らしに遊びに行くことも多々あった。

たまたま子供が産まれて、育児に追われていて、そういう場所には遠のいていた時期ではあったが、あの界隈で働く人、例えばディスコの従業員や、近隣駐車場の管理人、路上のたばこ売り、タクシーのドライバーなど、普通に生活をしていた人が、ある日突然、この世を去ることになったと思うと、人間はいつ死ぬのかわからないのだとつくづく思ったものだ。

それで一斉捜査の、犯人探しが始まった。

夜、買い物で主人と車に乗って出かけていると、警察に止められ、懐中電灯の光を向けられ、顔を確認される。

大型ショッピングセンターのようなところでは、爆弾を仕掛けていないか確認するために、棒の先に鏡が付いたもので車体の下部をチェックされる。

そんなことで仕掛けた爆弾を探せるのかと疑問に思うのだが。

 

テロ勃発後は、次の爆破がまた起きるかもしれないという、恐怖の毎日だった。

なんてったって、テロは一般市民に混じっていきなり爆発するのだから、防ぐことは困難だ。

だからテロにあう、あわないは、天に任せるしかない。

余談だけど、バリ島では、その後の2005年にも爆破テロが起きていて、日本人が巻き込まれているが、インドネシア全体では、割と爆破テロってよく起きていて、たまたま日本人が犠牲になっていないので、日本で大々的にニュースになっていないだけだ。

実際に、主人が実家近くで通う教会で筆者と主人は結婚式を挙げたのだが、そこも爆破されたことがあって、現地人が1人亡くなっている。

結局は、テロを恐れていては、海外には住めないというあたりか。

そういう風に、自分に言い聞かせている。

自炊とは、不味いものを食べておくためにある

suhartini, · カテゴリー: 未分類

こう見えても、筆者は自炊派だ。

バブル経済の勢いがあった時代から、ほぼ毎日弁当を持って行っていたし、インドネシアに住み着いたときも、朝市で食材を調達し、頑張って料理をしていた。

もちろん今も、毎日弁当を持参して仕事に行くし、自宅に帰ったら料理をしている。

こういう風に言うと、「料理が上手」だと勝手に思われるが、そうではない。

「料理は上手くはない」と説明しても、「でも毎日作っているんだから、腕が上がっているはずだ」と言われる。

ところが、筆者はそうはならない。

根本的に、「こどもくち」なのだ。

「こどもくち」というのは、味覚が幼稚な人を言い、いい大人なのに大好物が「カレー、ハンバーグ、スパゲッティ」という人のことを指す。

もちろん、そこまでひどくはないが、食べ慣れないものは得意ではないし、友人に誘われて外食をするにも、和食だとあまり気が乗らない。

逆に、筆者の母は、味覚が優れていて、料理が上手く、調理師の免許まで持っている。

その遺伝子は姪っ子に受け継がれ、子供のころから和食を好んでいて、大学では食物科を専攻し、食品関連の仕事に就いた。

ところが、甥っ子は、筆者と同じ。

「こどもくち」で、偏食がある。(筆者も子供のころは偏食がひどかった)

こんな感じの筆者なので、いくら毎日料理をしても腕が上がるはずもなく、なるべくレシピ本に忠実に作るのがせいぜいと言ったところだ。

ただ、味覚が優れている人って、わりと少ないのではないだろうか?

筆者は高校時代の友人が、22かそこらで結婚し、旦那さんが仕事で遅くなるという日に新居にお邪魔した。

そのときに夕食をごちそうになったのだが、豆腐ピザ(豆腐にピザソース、チーズがかかったもの)を出され、驚いた。

とりあえずは、楽しく食事をさせてもらったが、たぶん彼女も立派な「こどもくち」なのだろう。

 

こんな筆者がどうして毎日料理をするのかというと、習慣的な理由が主にあげられるが、もうひとつあげるとしたら、普段から美食を追及しないようにしている、というのがある。

上手く言えないのだけど、特別な日以外は、普通でよいのだ。

だから、なるべく自炊して、特別うまくもないものを食べて、特別な日のために楽しみを取っておくという感じかな?

そのほうが、外食をした時の喜びは大きいのだ。

寿司職人が何年も修行するのは考

suhartini, · カテゴリー: 未分類

ネットニュースを見ていたら、かのホリエモンが、「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言が話題になっている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151102-00000004-jct-soci

 

言われてみればその通りで、実際に筆者の同級生で、父親と一緒に一杯飲み屋をやっていた人が、独立して店を出すといって、いきなり寿司屋を始めた。

あれ?寿司って修行とかものすごく時間がかかるのでは?というと、

「寿司って、刺身を切ってご飯の上に載のせるだけじゃん」

と、言われてしまった。

同じく、大学時代の先輩で焼肉屋でバイトをしている人も、「肉切って、タレかけて出すだけ」と言っていた。

もちろん、どちらも客をなめているというつもりはないと思う。

なぜなら、ちゃんと経営が成り立っている店だし、お客もちゃんと入っているからだ。

だから、ホリエモンのいう、「何年の修行するのはバカ」という発言も、わからなくもない。

わからなくもないんだけど、確かに、何年も修行すれば得るもの、見えてくるものというものがあるというのも否めない。

そういうものなしで、なにかクリエイティブな仕事をしようとしたら、コピペしかないわけだし。

 

日本は職人という肩書に最大限の敬意を払う国なのだけれど、インドネシア語で職人は 「tukang(トゥカン)」といい、~師や~工、職人という意味があるのだけれど、google翻訳で訳すと「便利屋」とでる。

確かに、インドネシアで tukang に日本の職人魂のようなものを求めることは難しく、筆者の経験から見て、「便利屋」のニュアンスはかなり入る。

 

余談だが、バリにいたとき、ドイツ人の友人がいて、その知人が外国人を宿泊させるためのコテージを敷地内に建てたという。

それで、そのコテージに宿泊したドイツ人の友人を訪ねて行ったのだが、そのときに面白いものを見せられた。

トイレだ。

そのコテージのオーナーは、外国人を宿泊させるので、和式と洋式のトイレを2種類作ってくれと頼んだら、ドアを開けたら和式と洋式の便器がふたつ並んでいるトイレを作られてしまった。

確かに、tukang からすれば、言われた通りのものを作ったというわけだが、まさか、あの狭いスペースに和式と洋式の便器を並べて設置されるとは思わなかったそうだ。

まあ、メリットしては、ドアを開けたら、好みの便器で用を足すことができるので、どっちを選んだかというプライバシーは保てるかもしれない。

 

話がそれてしまったのだが、日本では、職人は親方なり主人のもとで一定期間、精神的なものを学んでいるから、職人たり得るのではないかなあと思う。

そういう文化があるから、職人に安心してオーダーできるのだと思う。

もし日本の伝統文化が、そういった徒弟制度を廃止してしまったら、ジャパンクオリティがあっという間に全滅するだろう。

ある意味で、たった3か月の寿司学校で学んだだけの料理人が店を出せるのは、日本の徒弟制度による伝統がベースにあるから、店を出せているのではないか?

そう思うと、日本の徒弟制度というものは残すべき文化と思う。

 

日本の雇用が変わりつつあるんだなと

suhartini, · カテゴリー: 未分類

今年の夏、筆者の友人と1年ぶりに再会した。

確か、コールセンターで働いていると聞いていたが、全く違う仕事についていた。

なんでも、某メーカーのサポートデスクをやっていたのだが、別の請負会社が、友人を雇っていた請負会社よりも安い契約金で引き受けるとのことで、そのメーカーが委託先を変更してしまったのだという。

で、友人は解雇されてしまったのだ。

 

実は、その手の話はほかにも聞いたことがある。

別の知人は、某会社のバックオフィス部門で働いていたら、ある時いきなり、「来年から、この部門を外部委託することになりました。みなさん、日々やっている仕事をノートにまとめ、マニュアルを作成しておいてください」と発表があったという。

その人は、それまで正社員として長く働き、そのままずっと定年まで勤めあげるものと思っていたが、ある日突然、自分の仕事を明け渡さなければならなくなったというのだ。

大企業で働いているから、長く働いているからといって、ずっと働き続けられるとは限らない。

その仕事をもっと格安に引き受ける外部業者がいたら、その仕事を他者に譲らなくてはならなくなるかもしれない。

この外部委託(=アウトソーシング)は今、非常に伸びているのだという。

アウトソーシングって、最近よく聞くが、つまりは、こういうことなのだ。

 

そういえば、ニューヨークで現地採用で働いていた友人がいるのだが、あっちでは解雇は15分で終わるといっていた。

ある日、出勤をすると、「あなたを解雇します。パソコンには一切手を触れず、荷物を段ボールに入れ、退社の準備をしてください」と宣言され、15分後にはオフィスの外に出されるのだという。

最初にこの話を聞いたときは驚いたが、日本もそうなりつつあるのかな?

筆者は子供を育てているので、日本の将来がとても心配になる。

 

ギョウチュウ検査がなくなるって

suhartini, · カテゴリー: 未分類

子育てをしていて、昔と変わらない道具やモノに出くわし、感動することがある。

そのひとつが、ギョウチュウ検査のセロファンだろう。

検便に関しては、見事に容器が進化したのだが、ギョウチュウ検査のセロファンだけは、昔のままだ。

 

みなさんは覚えているだろうか?

ギョウチュウ検査のセロファンには、青く塗られた円の中心に+印がある。

そこに肛門の穴を命中させろということなのだが、まじまじとみると結構恥ずかしいものだ。

 

筆者は、ギョウチュウ検査で陽性になったことはないが、主人の国ではお腹に虫がいることは、よくあるという。

だから、ギョウチュウ検査の時に説明された、「早朝に肛門に出てきて産卵する」という話も、日本では信じがたいが、主人に言わせれば、本当なのだという。

そういえば、主人の国では、薬局にいけば、普通に虫下しが売られているから、ギョウチュウはかなり身近なものなのだろう。

 

実は、主人と結婚して、たちのわるい冗談を言われたことがある。

ある日の夜、布団の中でこういうのだ。

「最近、お尻がかゆい。寝ている間に肛門から虫が出てくるかもしれないから、見つけたら捕まえてくれ」と。

筆者が絶句していると、冗談だと笑うのだが、新婚の妻に対する冗談にしてはキツすぎると思わないのだろうか?

 

なんでも、ギョウチュウは、肛門がかゆい → 肛門を手で掻く → 手に卵の付着し、再び口に入る...というサイクルで拡散されるらしいが、いくらお尻がかゆいからと言って、普通の人は素手で肛門を掻いたりするだろうか?

もし、やむを得ず肛門を掻くようなことがあれば、ただちに手を洗うだろう。

だって、臭いそうだし。

冷静に考えると、このサイクルって、理屈ではわかるのだけど、現実的には起こりにくいことのように思える。

 

ところで、そのギョウチュウ検査だが、今年を最後に学校での検査が廃止されるという。

なんでも、陽性率が1%を切っており、ギョウチュウは過去のものとなったからだというが、ギョウチュウ検査って、寄生虫の存在を知る、とてもよい機会なのだと筆者は思うのだが。

久しぶりに新宿の夜を楽しんだ

suhartini, · カテゴリー: 未分類

実は、先日の土曜、息子が夜間の講座を受けることになり、場所が西新宿だったので、しばらく送迎することになった。

夕方、息子と一緒に新宿に行き、そのまま4時間ほど時間つぶしをしなければならず、時間つぶしで夜の新宿を徘徊した。

筆者は、昔、新宿で働いていた関係で、新宿西口界隈はとてもなじみのある街なのだが、この街のよいところは、高層ビルだらけということだろう。

それって、普通は、ネガティブにとらえられるのだが、意外とタダで休息できるスペースが多いというメリットがある。

例えば、センタービルもそうだし、新宿野村ビルもそうだし、敷地には植え込みがあり、天気の良い日はそこで弁当を食べられる。

もちろん、そういう目的で作られたスペースではないのだろうが、西新宿には大学や専門学校、予備校も多数あるから、自由な学生とサラリーマンが同居している街なので、それができる。

これは、同じビジネス街でも、丸の内や日本橋にはない特色と思う。

筆者は派遣での就労が長く、収入が不安定だったから、なるべく弁当を持参していたのだけど、当時はあまり弁当女子などおらず、職場の机で弁当を食べるのは気が引けた。

だから、こういう、ビルの谷間にある植込みのスペースでお弁当を広げていたのだ。

 

久しぶりの新宿だが、結局はひとりでは時間を持て余しそうだったので、仕事から帰ってきた主人を呼び出した。

それで、時間をつぶそうとバーに入ったのだが、今夜はラグビーの試合があるので、9時で入れ替えになるという。

そんなわけで、バーでは1杯だけにして、続きはコンビニでビールを買って、例のビルの敷地の植え込みのところで夜空を眺めながらとなった。

新宿は、意外とリラックスできる街なのだが、そう思うのは筆者だけだろうか。